◆リラ物語3(女性性について1)◆

 

先ず始めにリラの主たるエネルギーである「女性性」についてお話してみます。

女性性と言うと「女らしさ」と捉えがちですが、表面上の女性らしさや柔らかさを指すのではなく、例えばある事象を見る時、どのような意識を持ってそれに対峙するかと言う事に女性性を垣間見る事が出来ます。

女性であれば見た目のしとやかさとは裏腹に、その内に強い男性性を持つ方も居れば
見た目が男前で、辛口の言動をする人でも高い女性性を兼ね備えた方もいます。

男性でも見た目が粗野で厳つい人であっても、その心のうちに女性性の一つである強い慈悲の心を持つ方もいます。
逆に見た目だけは紳士で優しそうに見えても、その目の奥に物事を論理と腕力で解決しようと言う意思を持つ方もいるでしょう。

女性性と言うのは、その人が持つ持つエネルギーベクトルの様なものです。

かつて人類の歴史には洋の東西を問わず政治は男性が執り扱うものであり女性は後で控えているものと言う時代がありました(今でもこうした化石の様な意識を持つ方も決して少なくは無いですが)


またあらゆる宗教において神事は男性が司るもの、そのサブ(補佐)として巫女やシスター、尼僧と言う位置づけで、女性の地位を低く見ています。
また女性自体能力が低く、低俗で卑しいものとして扱う男尊女卑の世界がこの1万年以上の永きに渡って続いてきました。
この歴史は、宇宙的に見ても特筆すべき「珍事」だった様です。

これは裏を返すと、この世界を管理し牛耳ろうとする側に取っては女性が持つ真の力が如何に優れているかを理解しているため、その解放を阻止し、押さえつける目的があったからなのです。

では女性性の力とはどう言った事なのでしょう。

私達人類を含めあらゆる生物を見ても分かる様に、全て母なるものから生まれて来ています。
その点から見ても女性と言う存在はこの世界を作り上げる始祖となるものな訳です。
この日本においても、神の最高位は天照皇大神宮、つまり女神と言う事になります。

そして女性の持つ優位性の一つがそこに有ります。
母である者の、子に対する慈しみの形こそ神の持つ慈愛そのものです。
これは教育され伝えられるから持つ様なものではなく、野生動物でさえ兼ね備えている真の愛の形。

それに比べ男性性は短絡的で、物事の解決を暴力や腕力で行い相手をねじ伏せ、言う事を聞かない時には戦争を持って解決して行こうと言う極めて粗野で単純な発想をしてしまいます。
実に稚拙で子供じみた意識です。

しかし女性性は物事の解決(政治的であれ極めて個人的な事であれ)を相手を殺害してまで解決して行こうと言う意識は希薄です。
もちろん男性性を強く持つ女性もおられますし、男性では思いもしない執念と意地悪をする事もある様ですが・・・
また極めて個人的な恨みや我欲のために殺傷に及ぶ事もあるかも知れませんが、それに関しては感情が左右する事象なので男女の差は余り開きません。

しかし戦争と言う行為は、個人的な怨恨も我欲も無い相手に対して銃口を向け引き金を引くと言う極めて常軌を逸した異常な殺戮行為です。
こうした無益な血は、その地に殊の外深いカルマを生じさせてしまいます。
つまり土地を血で汚してしまうのです。

また、女性性は「大義のための小さな犠牲」と言う意識は男性に比べれば少ない筈で、逆にその意識が結果として戦争を肯定してしまいます。

いかに真実であろうと数の論理でねじ伏せると言う、真の意味から逸脱した現行の「民主主義」と言う周波数帯の低い3次元のイデオロギーに依存しています。
本来の民主主義は主義主張を口頭や文章で表現する必要も無く、全ての人のニューロン的意識の繋がりに依存しますので、言葉は不要になります。
次の次元では政治もリーダーも不要な真の民主主義が執り行われることでしょう。

この世界、女性が政治であれ文化面であれ全面に立っていたのであれば、少なくとも物事の解決にミサイルも核兵器も使わずに済ます事が出来たでしょう。

その逆に統制とかルール、規律とか秩序と言う部分では極めて緩く、自由で曖昧な世界になっていたかもしれません。
しかしその「自由で曖昧」と言う事(意識)が、実は高次での在り方なのです。

管理し管理される社会も、厳しいルールも決め事もなく、自分の想いのまま生きる事の出来る意識も「女性性」と見る事が出来ます。

もちろん今までにも歴史を見れば女性の宰相は存在していましたし(その史実が作為的に曲げられ虚偽でなければ)戦を望む女性が居なかった訳ではありません。
しかし相対的に見て女性が全面に立っていれば、少なくともお腹を痛め大切に育てた子を戦場に立たせる様な「愚行」を人類はそう簡単に犯しては来なかったでしょう。